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或る決意

2年前のエントリーをふと飛ばし読みをしてみた。

「時が解決する」とはよく行ったもので、当時一番悩ませていた「仕事」は職種が変わったことで、大きく会社の見え方を変えた。

「売ること」「調整すること」「未来図を漠然と描くこと」が当時の仕事だったとすれば、今の仕事は「作ること」「マネジメントすること」「知見を持って未来を設計すること」になる気がする。

過去との比較はときに自分を黒歴史と対面させ、羞恥心が奈落の底に落としにかかってくるけれど、

ときとして自分の立ち位置や、思想の推移、変わらぬ価値観を確認させてくれる大切なものだ。

あの頃よりも驚くほど本を読む冊数や観る映画の数は減り、よりリアリストになってしまった気がする。

ロジックとクリエイティブを大切にしてきたけど、ロジックの要素が強くなりすぎたのか。

はたまたSEという仕事が”リアル”を作るものだからそうしたのか。

 

でもふと、鳥肌の立つドラマのワンシーンを観て、物語の力強さは素晴らしいなと思ってしまう。憧れてしまう。生み出したい欲求に駆られてしまう。

 

結婚式向けのムービーはある程度作れるようになった。人に涙を流してもらえるものを少し生み出すことができた。感動をデザインしたと言うと大袈裟かもしれないけど、でも、事実デザインできた。

 

どうにかしてクリエイティブな世界に関わりたいと願う気持ちは今でも強く自分を蝕み、ようやく活路は少し見えてきました。

 

僕はどうしても正攻法でうまくモノゴトをできないタイプの人間であることは昔から百も承知なので、自分なりの方法で繋がりたい世界との結びつきを生み出します。

雑記メモ

漂流するように

 

自由とは行動に意志があることだ

 

できるから仕事をすること

やりたいから仕事をすること

たまたまそういうことに「向いていた」だけ

 

「仕事」と打とうとしたら、「四、五」と打ち間違えた。

次に十が来れば問題なしかな。

 

横浜 五番街 

突然の雨 五月雨

鬱陶しいから傘はほしいかな。

 

久しぶりの椎名林檎が沁みる

沁みるってなんだ?

 

 

 

 

時々思うがままに文章を書くことはデトックスである。

最近鳥肌が立ったものを。

 

1.リオオリンピック 閉会式

youtu.be

土管から安倍首相扮するマリオが出てくるところはさておき、

「洗練された」とか「スタイリッシュな」という言葉がとてもしっくりくる演出。

割と素朴な疑問だったのが、

Perfumeしかりサカナクションしかり、こういった光をスタイリッシュに演出する技法がかなり増えていると思うのだけど、演出力・表現力という観点で日本はかなり優れているのかな。

Perfumeが全米ツアーやフランスで絶賛されたり、リオの海外の評価がかなり高いことだったり、

あとは何より海外のこういった技法のクリエイティブってあんまり見ないような気がするんだよなぁ。(疎いだけかもしれないけど)

 

話は変わりふと思うことだけど、

洗練されているものを見る

綺麗な文章を読む

これらが生み出す効果は絶大で、

受け手を魅了する。

 

今回の閉会式は、きっと次回の開会式に注目を集めるし、

“日本”が創るものにみんな期待せざるを得ない。

そうしてファンは増え、もっと“日本”が好きになる。

 

毎日どうしようもないこともあるこんな国だけど、

なかなか捨てたもんじゃないな。

 

 

そこに愛はあるのかい?

本を読むことはメッセージを受け取ることだ。

人と人とのコミュニケーションを、本というメディアで交わす。

会話と違うのは、受け取ったメッセージを必ずしも発した相手に返さないところかな。

ある人のメッセージを、今度は自分がメディアになってまた違う誰かに発信していく。

自分が何か思うところがあるメッセージだから、

「伝わってほしいなぁ」

「感じ取ってほしいなぁ」

と、直接会ったことすらない人の想いなのに、

いつの間にか自分のことのように大切にし、自分の一部となる。

 

つくづくこういうことを考えるたびに、

「結論を、ゴールを決めて書きなさい」

ということの難しさにぶち当たる。

 

僕がせいぜい思うことは、

表現って偉大だなぁ

とか

自分が伝え手となって、メッセージを受け取った人が幸せになればどんなに幸せだろう

とか

そんなことしか思えないのに。

 

そんなこともあって、表現で世界を動かせることはどんなことであれ、尊敬します。

 

表現するものに想い入れがあってこそ、伝え手自身の原動力は生まれるし、

受け手の突き動かされるものが宿る。

 

一つ屋根の下をリアルタイムで見ていたわけではないし、

なんならユナイテッドアローズグリーンレーベルのCMで放った吉高由里子の方が自分の中では先行してはいるけど、

「そこに愛はあるのかい?」

という一言は生み出すことの根っこだ。

 

ロマンに対する覚悟

面白い仕事もつまらない仕事も自分次第、

といったような言葉はよく聞きますが、

その通りでもあり、その通りではないな、と。

 

個人的には、

自分もわかっていない案件に、次第に筋道ができて、あるゴールに顧客を到達させる。

そのゴールまでの道筋は複雑であればあるほど、面白いし情熱的に仕事に取り組みたくなります。

その時、自分の中で「すごいことをやってるな」というちょっとした誇りだったり、

わからないことを自分で紐解きながら、落とし込みつつテンションが上がっています。(この時自分の中でパチンパチンと音を立てて納得していきます。)

 

多分この時起こっているのは、

想像してたものの骨格がはっきりとしてきて、想像が現実になることと少し錯覚しているんだと思います。

 

ロジックとクリエイティブってなんとなく似ているような気がしています。

別にクリエイティブに精通しているかと言われれば、そうではないですが。

 

想像をいかに現実に落としこむか、ということを考えれば、

クリエイティブを実現するにはロジックは不可欠というか。

 

個人的にとても好きで、応援したくなる会社のある人は言いました。

「ここにはとてもロジカルなロマンチストが多いです。」

「どんなに高く困難なハードルに対しても、1つ1つ道筋をつけて必死に実現に向かって進んで行く」

 

ロマンとクリエイティブは似ている。

ワクワクしたり、うっとりするような世界。

 

そこに向かう覚悟はあるか。

家族と自分

祖父母の家で数年ぶりに正月らしい正月を過ごしました。

朝はおせち料理を食べて、お昼は買い物に行き、夕方はみんな揃ってご飯を食べる。

 

おせち料理もそんな好きじゃないし、なんとなく家族揃ってご飯を食べることが億劫になっていた僕にとって、

なんとなく仕事のこととかを近況報告して、ゆっくりとご飯を食べる。

少しずつ身体が弱ってきている祖父母とこうして正月を過ごすことができるのもあと何度あるのかな、なんて少し寂しいことが頭をよぎったりなんてして。

 

久しぶりに祖父、祖母、母、妹と食事をすると、祖父母の家に行くことが楽しみでしょうがなかった小学生の頃をふと思い出す。

少し頑固だけど朗らかな祖父、なんでもいいよいいよと言ってくれるような優しい祖母、自由奔放な母、とにかくいろんなことを喋る妹。

みんな取っても気が回るし、心配症だし、何より優しい。

 

あぁ、ここで人格形成がなされたんだな。

こんな人たちに囲まれて来たからこそ、自分は甘え続け、好き勝手に生きてこれたんだなと。

またある意味で、お正月すらも一人でふらふらすることを許してくれたからこそ、

一人で行動するようにもなったのかもしれない。

 

厳しいところはあったものの、自由と常識を授けてくれたのは自分ではなく、家族だったんだなと、こんな当たり前のようなことに24にして気付かされるとは。

 

「家族シアター」とか「水やりはいつも深夜だけど」とか、最近読んだ家族がテーマになっている小説を書く根底には、こんな気持ちがあるのかなぁ、

なんてふと思った。

感情の演技について

滲み出る想いとか、心の奥底からの葛藤とか、ドロっとした液体のようにジワジワと広がってゆく感情を表現できる役者さんって素敵だなと思う。

 

心からなりきることはもちろん、

当人のように想像すること、

頬の強ばり、俯き方、視線…。

 

強い想いを伝えるとき、人は強い決意をする。

その決意は全身をつたい、ことばになる。

全身を駆け巡る想いの塊が、その人の仕草を作り上げる。

 

単なる台本の台詞を読むだけだと、ここまでできないよなぁ。

 

と、昨日に観た「桐島、部活やめるってよ」と何気なくテレビをつけたらやっていた

花子とアンのスピンオフ「朝市の嫁さん」から感じましたとさ。